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松前公園の桜(2025/04/26)
何年も前から行きたいと思っていた北海道松前町の松前公園。やっと実現した。 ここには250種類の桜が植えられているという。本州で見られる桜のほか、浅利政俊氏の尽力により松前町で作出された桜も多くある由。 北海道の桜の開花は、ほぼ例年並みかすこし早いくらいだった。なお、函館など道南地方における開花の標準木は、本州と同じ染井吉野である。 しかし、松前公園の場合、約1万本の桜が植えられているのだが、もっとも多いのが「南殿(なでん)」という品種で、約4千本。染井吉野はほとんどないので、探さないと見つからない。私が訪れた日は、染井吉野がほぼ満開になったということで、全体が花に覆われている木があればそれが染井吉野ということで、わりと簡単に見つけることができた。染井吉野は、本州で見慣れている姿とはすこしちがっていて、樹齢を重ねた木だと幹がごつごつと太くコブだらけになっていて風格が漂っていた。函館の五稜郭公園の染井吉野も同じような姿だった。五稜郭公園にあるのはほとんどが染井吉野で、街のなかでは大山桜(蝦夷山桜)が街路樹としてたくさん植えられていた。北海道の気候では、染井吉野は道南地方くらいまでしか育たないようで、翌日に足を伸ばした帯広あたりではまったくといっていいほど見かけなかった。 「南殿」は不思議な桜で、本州で「松前早咲」と称しているものと同じであるようだが、松前町では「松前早咲」の名前は使用していないようである。松前公園の中にある光善寺という寺の境内には、「血脈桜」という大きな桜があって、これが「南殿」の原木であるらしい。 「南殿」の解説資料を以下に示す。 ---------------------------------------------- 南殿(松前早咲) ヤマザクラ群タカサゴ系の栽培品種 江戸時代から松前にあった桜。花は淡紅紫色。花径4.5~4.8cm。八重咲き。花弁は12~15枚。横下向きに咲く。よく平開する。長寿の八重桜。 (1) 松前の桜功労者の鎌倉謙助氏は、ニシンの不漁、豪商の転居などですさんでいた町の状況に心を痛め、函館出張の際に函館公園の花見の賑わいを見て、町民の心の平和を願い、大正年間から昭和三十年代にかけて、町内にあった桜から接木して、桜の増殖に取り組んだ。この「南殿」は「染井吉野」を台木として接木し育成したものであり、大正年間に植えられたものと推定される。大正十五年(一九二六)植栽と仮定して、平成二七年(二〇一五)現在、八九年風雪に耐えている。 (2) 松前の桜功労者の鎌倉謙助氏は「南殿」を単に「早咲」と呼んでいたが、昭和四九年(一九七四)、桜研究家林弥栄氏が「松前早咲」と命名した。 松前では、浅利政俊氏、田中淳氏が図鑑を元に同定した「南殿」の名称のほうが、主に用いられているが、一方、「南殿」は「高砂」の別名でもあるため、このことに留意する必要がある。松前の「南殿」は、花が咲く時期、花弁数など「高砂」との共通点が多く、高砂と霞桜の雑種ではないかといわれている。 (3) 江戸時代に吉野から持ってきたという伝説のある桜で、松前の代表花である。原木は光善寺にあり、「血脈桜」と呼ばれている。伝説では「血脈」(極楽浄土へ行く証文)という「死」と、乙女を桜の花の精と悟った住職が伐採を思いとどまるという「生」、「再生」を暗示している。 明治三六年(一九〇三)二月二十二日、光善寺本堂焼失の際に「血脈桜」も焼けて瀕死の状態であった。当時の新聞「函館公論」では「血脈桜も不幸にして今回の火災に罹り、再びその爛漫たる美観を呈すること能わざるに至りたるは、呉々も惜しむべき限りにこそ」と報じたが、強い分枝性を有したこの桜は見事に「再生」し、現在に至っている。松前公園にあるものは「血脈桜」から分根、または接木で増やしたものである。 ---------------------------------------------- なお、松前公園の桜には、そのほぼすべてに名前の書かれた木札が付けられている。この木の札はすこし高い位置に付けられている。表と裏、両面に同じ名前が書いてあるので、どの位置から眺めても、風に吹かれて木札がくるくる回っても、名前がはっきりとわかる。これは嬉しい。 染井吉野はほぼ満開になっているが、その他の桜は、南殿を含めてまだこれからが本番である。京都の平野神社由来の遅咲きで有名な「突羽根(平野突羽根)」や岐阜県白川郷の本覚寺に原木がある「太田桜」、奈良県の奈良公園に原木がある「奈良八重桜」など、遅咲きの桜が咲くのは10日ほど先であろうか。 今回の写真のリストを以下に挙げる。
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